和田みつひと作品 /Mitsuhito Wada works 1998

「in・stant/ in・dex/ in・* side1・2」 藍画廊(東京)

Photo:谷岡康則 Yasunori Tanioka

「in・stant / in・dex / in・*  side 1.  side 2.」和田みつひと

 

「日常」は、始まりも終わりもなく勝手に積み重なります。また今日になり、目が覚めれば憂うつの中にいます。何か大事件があって不幸というのではなく、飽きもせず今日がめぐってくるからです。そして、生活という「言葉」は辞書に載っているとおりにあります。辞書は、「言葉」を一つのきまりにより並べ順序づけています。生活はTVの中の現実にもあります。TVは、現実の出来事をモニターして標準や一般といった基準を映し出し、それを更新し続けるのです。

 

「日常」の風景では、生活のなかで住居や交通そして生産という人によって造り出された様々なものが、手を加えられない自然と一つに溶け合っています。もはやビルや高速道路とその彼方の工場地帯が自然の風景です。今ではいくつもの通信衛星が上がり、そこを介した電波が地球を包み込んでいます。街の明かりは一晩中消えることがありません。街角にはコンビニエンス・ストアーが営業し、コンピュータが動き続けています。今や24時間体制で眠らない世界が現実です。ここでは人が知覚し体験するものが現実となるのです。TV画面やコンピュータのスクリーンが現実です。その情報ディスプレイの前に釘づけにされた人は、目醒めを強いられ、目醒め続けるために必要とされる健康な体が強いられます。それには化学食品よりも人工的な自然食や心身管理のためのスポーツが生活に持ち込まれます。

 

「日常」の生活は、それぞれの人の目の前にあります。過剰な期待と根拠のない安心感を抱くほど無邪気にはなれません。なぜなら、絶対的な理想や確固たる価値を持ち得えず、そう思うこのわたしという「わたし」さえ不確かに思えるからです。例えば、なにか思考し始めるとき「わたし」はすでに他の人の思考を思考しています。わたしが「わたし」という時の「わたし」とは何処から来るのでしょうか。それは自立したものとして語られるのではなく、他の人との「関係」により語られるのです。そして世界では、人による全ての事は一度行われ、全ての土地は人が辿り着き、みな均しく分けられています。そして、出来事が現実以上に現実的であるがゆえに全てが既視感の中にあるように思われます。あり余る現実と、必要以上の統制と管理や、溢れる意味と情報は、理想や選択肢の提示によって償うことはできず、批判による否定や乗り越えも不可能です。 

 

「日常」の時間は、ただ繰り返すだけです。進歩という時間は、追いかけてもすぐ次に知ることが増えます。そこから逃げることも追いかけることと同じとさえ思えるのです。

 

『藍画廊』の展示では、「場所」の「体験」を規定する空間と時間を作品にします。それは移動や交換可能な絵画や彫刻といったモノではなく、またモノを持ち込むことによって空間を作るのではありません。絵画や彫刻でいえば額縁や台座にあたる、その部屋の空間を規定する壁面や床面を操作することによって、その「場所」を作品にします。観る人に知覚されるその「場所」が作品となり、観る人の立つその「場所」が作品となるのです。

 

画廊という、たんなるこの「場所」としての「日常」の場を、色材として物質感を感じさせない蛍光色を配し、その場所にある建築のサイズによる空間の分割を行います。そして特に「感情」や「意味」といった「重さ」を持たず、感覚作用に働きかける光のように想われる蛍光イエローを用いての「非日常」への移行です。

 

それはモノを「壁」にかける、「床に置く」などの、空間の量への直接的な関わりはせずに、その「場所」との関わりにおいて、そこにある「日常」の空間を表現の場へと移行させることです。

 

和田みつひと展  in・stant / in・dex / in・*  side 1(1月19日~1月24日)では画廊内を展示空間と事務空間を仕切る壁に蛍光イエローを配し、in・stant / in・dex / in・*  side 2(1月26日~1月31日)では展示空間の床に蛍光イエローを配します。

 

『藍画廊』は、Y字路に挟まれて建つビルの1階にあります。画廊のひとつの壁面が道路側に面し、その壁面は一部を開閉できます。 『藍画廊』での2回の展示(インスタレーション)では、それを開けた状態にし、通常の展示のときよりも明るくします。画廊の開廊時間だけでなく照明を24時間灯すのです。その光も作品であり、日が暮れてからは内部だけでなく外部をも照らし出します。そして、それぞれの「時間」をもった不特定の人々が訪れ、それぞれの「時間」を持った人々がその開けられた壁の外を通り過ぎることでしょう。

 

その『藍画廊』の内部で展示(インスタレーション)を行うことは、同時に外部にも開いたものになります。『藍画廊』の中の空間だけでなく、『藍画廊』の外からの街角の風景も作品になるのです。作品は画廊がその「場所」にあるかぎりそこに在るのです。

 

『藍画廊』での2回の展示(インスタレーション)は、それぞれ単独に在るのではありません。単に積み重なる「日常」の時間の内で、それぞれの展示の時間が同等としてある時間の断片化の試みです。それは継続としての時間、物語的時間や進歩という直線的に表される時間とは別のものです。「非日常」は常に瞬間に、そして現在に在るのです。

 

まだ観ぬ懐かしい風景を作品にしたい。

 

1998年 

「[re・mark/ rima:rk]」 西瓜糖(東京)

Photo:谷岡康則 Yasunori Tanioka

[re・mark/ rima:rk] 和田みつひと

 

ギャラリー&カフェ『西瓜糖』(SUIKATOU)は、JR中央線の阿佐ヶ谷駅北口を下車し、中杉通りを北へ徒歩で約3分のところにある、午前11時から午後11時まで営業する喫茶店です。コーヒーの香りが店内を満たし心地よい音楽が流れ、半月から1ヶ月ごとに現代美術の作家の作品を展示しています。思い思いに人々が訪れるこの喫茶店は、けやき並木の通りに面して建ち、通りと店内がガラス面により仕切られた建物です。そのため、店内からは外が眺められ、外からも店内のようすをかいま見ることができます。昼間はその大きなガラス面から光がさし込み、あたりが暗くなると、店内は照明により明るくなります。そこは、さまざまな人々がその前を通り過ぎ、時間とともにその光景が移り変わっていくさまを目にすることのできる場所です。

 

人々が出会いすれ違う街角に風景があります。街のいたるところからも見られる道ゆく人々の姿や街頭の光景は動きと変化に富み、つぎつぎに新しい風景が生まれています。私たちの誰もが、それぞれの環境で、いつも風景に抱かれた状態でいます。風景は近くや遠く離れた所に見出される光景であるのですが、単に光景にすぎないのではありません。それは、枠づけられることによって奥行きと距離感が生まれ、まとまりのある風景がひとつの眺めとして体験されます。それは枠づけられ固定された概念のひとつなのです。ですから、ここにいる私とあなた、そして彼や彼女にとっての風景は、同じではありません。眼を通して私たちのからだに支えられた頭にある脳に見られた風景は、別々の脳に見られたそれぞれの風景です。私にとってあなたや彼や彼女は私の風景の一部です。そしてまた、あなたにとって、私や彼や彼女はあなたの風景の一部であり、風景です。それは彼や彼女にとっても、それぞれがそれぞれの風景をもち、私やあなたは彼らの風景の一部なのです。

 

この展覧会では、美術館や画廊のように美術作品だけを観に訪れるのではなく、喫茶店という、それぞれの目的でさまざまな人が訪れる場所で、その場との関わりを提示する作品を展示(インスタレーション)します。それは、ふだん繰り返される生活の中に、眼の前にある現実とは異なる作品という現実を示して、その場のふだん観られる風景の状態をずらすことです。インスタレーションは、観る人とその場との関わりにあり、観る人が体験するその時に成り立つもので、ある意味でその場の物理的であり社会的な性格についての批評(remark)となるものと考えます。

1998年