和田みつひと 作品 /Mitsuhito Wada works 1999

「I could be you, You are not me.」ギャラリー現(東京)

Photo:谷岡康則 Yasunori Tanioka


「I could be you./ You are not me. STAGE1・2」

「STAGE3 move/ copy/ format」

「STAGE4 in・stant/ in・dex/ in・*」 西瓜糖(東京)

Photo:谷岡康則 Yasunori Tanioka

「絶対的孤独の体験の為に」和田みつひと

 

 たとえば、眠れぬ夜というのがある。夜になり、すべての明かりが消え、あたり一面が闇に包まれ、目醒め続けるのはもはや自分というより、闇そのものになる。目醒めているのはもはや「わたし」ではなく、夜である。そこでは、外部と内部の関係がなりたたず主語がない。それはひとつの孤独の「体験」である。その「体験」の「場所」とは、そこで「体験」されうることにより規定され、その体験する者の「からだ」に帰属する。そして、この「からだ」はそこに在ることにより確立するのだ。

 

 そして、「からだ」の孤独とその「体験」の「場所」は光によって条件づけられる。その「場所」は光の到達しうる範囲でしかありえず、光によって照らし出された「他者」との間に隔たりを生み出す。その孤独の「体験」とは相対的な意味での孤独ではなく、「他者」との関係の喪失によるものとは別のものだ。わたしが「わたし」と言う時の「わたし」とは何処から来るのか。それは自立したものとして語られるのではなく、「他者」との「関係」により語られる。

 

 始まりも終わりもなく勝手に積み重なるだけの日常的な生活。自然なる風景に生活のなかで作り出されたもの、たとえば住居、交通、生産がある仕方で結びつくことによって自然と融合しひとつの自然の風景となる。今やビルや高速道路、そのかなたの工場地帯が自然の風景なのだ。TV画面やコンピュータのモニターの画像さえ、人が知覚し体験するものが現実となる。それらは全て人によって造られたものだ。いくつもの通信衛星が上がり、そこを介した電波が地球を包み込む。一晩中明かりを消さないビルの街、街角にはコンビニエンス・ストアー、動き続けるコンピュータ。世界は24時間体制で稼動し眠りはない。

 

 出来事が現実以上に現実的で、現在以上に現在的であるがゆえに全てが既視感の中にあるように思われる時がある。現実の過剰、世界にたいする統制と管理の過剰、意味と情報の過剰の中で理想や選択肢の提示によって償うことはできず、否定や乗り越えも不可能になったとさえいわれる。過剰な期待と根拠のない安心感を抱くほど無邪気にはなれない。

 

 内部からの欲求で制作しているのではないとすれば、それは外部との関係において「わたし」が「わたし」であることの確認と忘却であり、「あなた」が「あなた」であることの確認と忘却である。「わたし」がここにいるということを、「あなた」に何も言わずに伝えたい。「あなた」と「わたし」はその状況と関係によって意味が入れ代わる。「わたし」は「あなた」になり、「あなた」は「わたし」ではない。

 

 作品というものは、観られることによって初めて成立する。作品とはあたかも「実体」のようにあるのではなく観る人との「関係」が欠かせない。観るということにおいて人は、意識するしないにかかわらずその作品の背後にみえない作者を想定しており、そこから「解釈」されるのは観る人自身の感覚や思想にほかならない。そういう意味で作者は観る人といえる。

 

 たとえ同じ「場所」にいても「あなた」と「わたし」のもつ感覚や思想は違い、それぞれの「時間」を持ちその「解釈」はそれぞれである。それぞれの時間をもった観る人のそれぞれの「体験」、その「関係」が作品足り得る。

 

 その作品とは、なにか出来事を表し、それを真ん中に「送り手」と「受け手」が向かい合うことで成立するのではない。作品自体がひとつの出来事としてあり、それとの「関係」において観る人が作品の一部になる。その展示空間自体を作品にしたい。そこでは、観る人の移動にともなってその様相を変え、そこに観る人がいることによってその様相を変える。観る人が観られる人になるのだ。

 

 それは移動や交換可能な絵画や彫刻といったモノではなく、またモノを持ち込むことによって空間を作るのではない。絵画や彫刻でいえば、額縁や台座にあたるその部屋の空間を規定する壁面や床面を操作することにより、その「場所」が作品になる。観る人に知覚されるその「場所」が作品となり、観る人の立つその「場所」が作品となる。

 

 これらの想いから、モノを「壁にかける」、「床に置く」などの、空間の量への直接的な関わりはせず、その「場所」との関わりにおいて、その「意味」に覆われた日常の空間を表現の場へと移行することを試みている。そしてそれは、色材として物質感を超えて観えてくる蛍光色を配し、その場所にある建築のサイズによる空間の分割を行うことで、既存の意味や機能を剥奪する。特に「感情」や「意味」といった「重さ」を持たず、感覚作用に働きかける光のように思われる蛍光イエローを用いての「非日常」への移行の試みである。 

 

初出:和田みつひと「絶対的孤独の体験の為に」『アクリラート別冊1998』、1998年、pp.98-101